松村由利子『耳ふたひら』

耳ふたひら (現代歌人シリーズ)

耳ふたひら (現代歌人シリーズ)


春ごろいただきました。
ありがとうございました。


10首選(☆1首選)


竹取の翁のように初物のマンゴー持ちて訪れる人
眉太き風が西から吹いてくる嵐の前にパンを焼くべし
サントリーホールのチケット購入し島抜けという言葉思えり
☆都市の力見せつけているキオスクの朝刊各紙の厚き林立
半身をまだ東京に残すとき中途半端に貯まるポイント
もうわたし器でなくなる日も近い川面に石を投げ続けても
湾というやさしい楕円朝あさにその長径をゆく小舟あり
手の甲と首から老いてゆくという女ほとほと面倒くさい
重い蓋がふっと外れることがある三つくらいの子ども見るとき
誕生日また来てあなた卒然と玄米ごはんに興味を示す

  • 沖縄がおおむねの舞台。
    • 積極的に戦後沖縄史や琉球受難の歴史をテーマにしている
      • タイトルもそこに由来するものと思われる
    • 首都圏との対比が具体的に出るとき、歌にちからが増している
  • 年齢と相聞も大きなテーマ。
    • 女性の老化をかなり端的に出しているのは独特で興味深い
    • 年齢的には若々しすぎるほどの印象の相聞があり、これは俵万智・バブル世代の特徴かと考える


以上です

土岐友浩『Bootleg』

Bootleg (新鋭短歌シリーズ)

Bootleg (新鋭短歌シリーズ)


初夏ごろいただきました。
ありがとうございました。


10首選(☆1首選)


なにもわかってない、あなたは。というのを思いがけずほめ言葉でつかう
まるでそこから浮かび上がっているようなお菓子のそれでこそビスケット
牛乳を電子レンジであたためてこれからもつきあってください
歩いたらそこまで行けるものとしてたとえば宇宙センターがある
海に来て何もできずに立っている海の生きものではない僕よ
乗客は乗り込んだのに雨の日のドアをしばらく開けているバス
☆できるならこうしてずっとプリンタを買わずに済ませたい雨上がり
あの海の音がきこえてくるだろういまの電気がなくなったとき
ゆびさきに春の砂糖をつけながらドーナツの輪をちぎる仕草は
風速を平均したら4ノット もらった梨と買ってきた梨

  • 言葉にストレスをかけないように注意深く作られている。
  • あるいはストレスのかかる言葉をはじめから省いている。
    • よって、うらうらと明るいのだが、そこでいらいらとしてはいけない
    • ある種の潮流においては、字余りと句またがりを積極的に用いて、リズムを変えているところに独自性がみえる
  • エッセンスとして、相聞と青春の憂いが、おおきなみどころである。
    • 第一歌集の古典的王道をはずしていないところも特徴


以上です

中津昌子『むかれなかった林檎のために』


初夏ごろいただきました。
ありがとうございました。


10首選(☆1首選)


右手置き左手を置きつつみ込むりんごが不安である筈はなく
うちしめりカンナが花を垂れている西日本のうす曇る空
放射線の恵みを受ける春の日のうらうらとして足がたよりなし
ふっくらと胸のあたりに結び目を作りぬほどくためのスカーフ
☆なかほどのあたりに話す声のあるらせん階段仰向きて見る
呑み込みし錠剤がのばす春の枝 体内に森が輝きはじむ
わが腕に巻きつけられる母の腕 流木のようにふわふわとする
いがいがと舌に残れる鱗あり指に移せば醤油の色す
一貫匁ろうそく太く燃えながら烏飛びする翁かるしも
秋の葉がはげしく降っているように母の食べる手震えやまざり

  • 特殊な立場・職業でなく、強い修辞を出すわけでなく、独特の間合いが特徴。
    • 手早く値切る、というか、おおらかな流れの中に京都エッセンスがまぎれない
    • 『光儀』『ゼクエンツ』とまとめて読んだので、三様に際立つ
  • 病、母の看病を主テーマに京都の四季が背景にある
    • 河野裕子と比較すると、「むりやり立ち向かう痛々しさ、演技性」というものは存在せず、一般的なメンタリティに根差すもの
    • 一方で、身体性を生物の喩として出すところに、短歌の歴史性がみえる


以上です

河野美砂子『ゼクエンツ』

ゼクエンツ―河野美砂子歌集 (塔21世紀叢書 第 264篇)

ゼクエンツ―河野美砂子歌集 (塔21世紀叢書 第 264篇)

初夏ごろいただきました。
ありがとうございました。


10首選(☆1首選)


企画書に予算書も添付提出すモ−ツァルトを弾くための金額
逢はぬ日々を芙蓉咲きつぎ手も足も声もつぎたしつぎたして過ぐ
原典といへども初版と自筆譜の異なることに一日かかづらふ
胸もとに白毛ひろげふあんなりわれを見上ぐる犬の顔つき
まだ雪のふらない衣笠山が見ゆ白川静のともしてゐた灯
ひとくぎり練習[さらひ]終ふれば床の上に死体のポーズ[シャバアサナ]あたたかき私のからだ
三月は黄のフリージア三度買ひ自然治癒力の本ふえてゆく
かぎりなく桜膨張し吐くほどにおろかと思ひき汗落[あ]ゆるなり
むらさきの湯の舟にわがひたりつつ花の舟おもふ焼かれたれども
最後までママと呼びゐしその人を母と書くたびゐなくなるママ
☆ガラス戸に冬木の影をうつしゐるコンビニはああこころの寄り所

  • 母への挽歌にとても力がある。
    • 死者の悼みかたが、とても納得のいく心の持ちよう、構成
  • 職業詠に華やかさと深みが両立している。
    • ピアノとだけの孤独な対話ではないところに、動きや奥行がある
  • 紫野あたりの風景・自然詠に新たな印象がある。
    • はっきりとしたイメージを持っていることが伝わる
    • 池がよく出て来るが、あるいは心象の池かもしれない


以上です。

水原紫苑『光儀』


春ごろいただきました。
ありがとうございました。


10首選(☆1首選)
(漢字はすべて旧字です。引用が難しいので、一部のみ旧字にしています。ご容赦ください)


丹頂の鶴は食むべし真珠[しらたま]は酢に溶かすべし泥のごと死ね
あやまたず地獄に落ちてかの死者と相見む無限回問はむ敗戦のこころ
藤圭子仰向けに落ちて死にたりと水仙の野に告ぐるこころよ
くつろぎて水月を見るくわんおんはくわんおんに在る御身を忘る
  『シュレーバー回想録』
あかねさすロゴスの果てのシュレーバー神宿すべく子宮を得たり
生きながらわが雙[さう]の耳、天界へ昇りけらしな雲は私語なす
  「私は言葉だつた。私が思ひの嬰児だつたことをどうして證すことができよう―」(山中智恵子『みずかありなむ』)
思ひの嬰児、海にあふるるそらに満つ大和歌[やまとうた]こそ裏切るものを
山藤[やまふじ]のくらきに逢へば畏れつつその名問ふなり カッサンドラぞ
黄金[わうごん]の果実の内に碁を打ちし少年二人相分かれたり
☆爆撃に臺盤所[だいばんどころ]吹き飛びて風に舞ひたるそのメニュウはや

  • フィクションにフィクションを重ねている。
  • 力がうまくかみ合うのは、自身のルーツを述べるところで、そこで出てくる沖縄や近衛などの言葉の喚起力が圧巻
    • そうでない部分は、わりとよくある美学で、これはむしろ大衆性の表象なのではないか
  • 白犬のさくらさんがひんぱんに登場してかわいい。やや、八房感があった。


以上です。

真中朋久『火光』

火光―真中朋久歌集 (塔21世紀叢書)

火光―真中朋久歌集 (塔21世紀叢書)


春ごろいただきました。
ありがとうございました。


10首選(☆1首選)


ウォークマンがテープを回しゐしころの居眠りチョロ松もとうに死ににき
お父さんの歌は虚構と言ひきかす妻のこゑいたくちからを入れて
白きワゴンは訪問介護デイケアかバックしますバックします路地の奥まで
  「名瀬震度2震源は地中海」(一九九九年八月十七日)は誤報であった。
万の死を思はざりけるかの日のことよぎりしがただに息つめてしばらく
☆ブラインドあけはなちたる外光のまぶしくて昼休みの節電
甘やかされ手のつけられぬやうになりしもその街の出なれば兄弟
弟の殺さるるまでを見届けむ死んでも疎まるるべき弟の
じたばたと屈せず機をうかがひつつ屈せずはじめから骨なくて屈し得ず
ながあめののちの山体の怒張かな池みづに鯉が窺ひゐたり
ゆるきカーヴは貨物ヤードにわかれゆく錆いろのなかのぎんいろ二条
山上の小さき池のいくつかをめぐることもあるかイモリの一生[ひとよ]
かの日々には沖に航路を離しゐし牛乳運搬船白き巨船[おほふね]

  • 読むのが楽しい。
  • いくつかポイントがあると思ったのでざっと挙げる。
    • 震災・原発がらみの歌に厚みがある。実際に「揺れていない」場合は、これくらい積み上げないと他者の心には響かない
    • 性的な喩の使いどころが、あまり例歌のない感じでたいへん興味ぶかかった
    • 地面を広くとらえる表現・発想が際立つ。地理的とでもいうような独特の思考
    • おそらく、死者である「兄弟」と、影である「オルタ―・エゴ」と「作者」の三名が存在する。このようなやりかたで私性を超えていこうとするのは、個人歌集単位では初めてで、とても刺激を受けた。
      • ゲド戦記』的なベースにさらに混ぜてきた、というような印象


以上です。

森本あんり『反知性主義』

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)


この本はお勧めである。
あとがきから引用すると、

反知性主義の「正体」には、今の日本で流布している意味内容からは思いもよらない肯定的で正当な要素が含まれている

ということであり、
本書を読んだあとでは、「反知性主義」ということばを、軽々しく使えようがないはずだ。
本書からは多くの示唆を得たし、多くを学んだ。



また本書は、ともかく非常に読みやすい。文章が抜群に上手い。
なぜこうもストレスなく読めるのか、と考えて、筆者の略歴を見ると、牧師である、とのことである(ICUの副学長)。
そこで合点がいった。なるほどなるほど、息継ぎが的確なのである。
もし機会があれば、私はクリスチャンではないが、いちど説教を拝聴したいものである。


本書はまた、副次的に「ハリウッド映画史」の書にもなっている。
映画から語り起こすことには、無味乾燥になりながちなジャンルの話題を鮮やかにするという効果以上のものがある。


この本がベストセラーになるのは、それがたとえ、ミスリーディングを誘うための副題のおかげであるとしても、良いことであるだろう。
まさに、反知性主義的なビジネス精神の賜物である。