『饕餮の家』(高島裕)

饕餮の家』(高島裕)は歌集。
先月末にいただきました。
ありがとうございます。


10首選(☆一首選)


家内に過去世の匂ひ立ち初めぬ数珠もつ人に茶を勧めれば
ふるさとの空に醤油の匂ひして田祭の日は近づきにけり
硫黄吹く瓦礫の谷をもとほれば心の底にありありと、蟲
かつて住みし街を旅ゆく不思議さよ 朝のATMの閑散
つくづくと見たり一首の歌として茂吉小用バケツ「極楽」
海辺の小学校にタクシーを呼びて遥かな帰路繋がりぬ
ふるさとの朝餉ののちを旅しきて都市の鰻を腹に収めつ
雪つもる寒さの中を帰り来てアニメの雪を暖まり見ぬ
☆助手席で灯る子宮に委ねきる。をとめごころも、こどもごころも
ワンルームを支配している饕餮に見下ろされつつ鍋囲むなり


以下雑感。

  • 「ひととせ」「さらに睡らな」「喪の翅」「花に会ふ」「饕餮現る」が良かった。
  • 私の内的基準では、「言い過ぎに相当する歌、だが、捨てられない歌」が多く、それゆえ深く印象に残った。
    • 象徴的な歌としては「温めて運転席でひとり喰ふコンビニ弁当こそわが至福」、がある。
    • この歌は、ほぼ唯一「運転席」でのみ生還している。他は駄目だ。だが、「運転席」が全てのマイナスの札をひっくり返す。
    • 問題は、「運転席」は詩想の産物ではどうもなさそうだ、ということだ。この言葉をもぎ取ってこられる高島という人間への敬愛、なり興味が、この歌集を読むモチベーションとなる。その微妙な加減を頌するものである。
  • 饕餮は「たうてつ(とうてつ)」であり、詳細は、こちらでどうぞ*1
  • 相聞がとてもよい。私見だが、二十代を超えている人物の相聞は根本的におぞましい、と考えている。相聞は、そのかけがえのなさ、の一点で成立し(交換不能ということだ)、それは「若さ」と共にある以上は(三十代の私には悔しい部分もあるが)自動的にある種の清潔さを獲得する。そうでない人物が相聞を歌う場合には、覚悟が絶対に必要である。おぞましさ、そのものを前提として開き直るのか、年齢は関係なく、相聞であろうとするのか、あるいはそれ以外か、少なくとも、高島の相聞には覚悟は当然のこと、意匠も野心も細やかさもある。これは受け入れられる。
  • この歌集は今季の最初の屈指の一冊である*2。誰にでも応用可能な「表現」の分野ではなく、オリジナリティの面で称えるべきである。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%95%E9%A4%AE

*2:歌集は、11月-10月で年度が形成される