歌集『水廊』(大辻隆弘)と野球の歌

水廊―歌集 (第1歌集文庫)

水廊―歌集 (第1歌集文庫)


歌集『水廊』(大辻隆弘)は今週始めにいただきました。
ありがとうございました。


現代短歌社が出している第一歌集文庫は、
絶版になった価値ある第一歌集を廉価で再販するという
野心的で、意義のある集です。


『水廊』は大辻の第一歌集で、
おおよそ四半世紀むかしの歌集となる。
ここであらためて、大辻の第一歌集を初めて読むことになり、
思うところは多い。
長文を記そうと思えばいくらでもできるし、
それは称賛と批判の両面からできるのだけれども、
ここでは、タイトルに記した一点に絞り、
簡単に述べておきたい。


野球の歌である。


私は浮世のながれから幸運にも大辻さんから歌集を続けていただくことになり、
ふりかえれば第三歌集の『抱擁韻』からその歌を読んでいる。
『水廊』の年譜によると、『抱擁韻』は今現在の私の年齢とさほど変わらぬお歳で出版されたということで、
なにやら膨大な月日の水量を思うことである。


ともあれ、野球の歌である。


大辻は、私の知っている限り、必ず歌集に野球の歌を入れている。
そして、実に、私の好きな歌がある。
例えば以下の二首。

火達磨となりたる与田(よだ)がひざまづく草薙球場しんかんと昼
藤川球児 (ふぢかは)の腑甲斐の無さをなじりゐき人工弁を胸に埋めて


あるいは、この二首目は、やや、上手すぎるのかもしれない。
人工弁のひとと、大辻のかかわりを(歌集の連作で)知っていてさえ、そう思う。
私が立ち止まるのはやはり、与田、であり、その絶対的な孤独であり、敗者の姿である。


現在、私が最も信頼する「エッセイスト」の一人、小田嶋隆は最近、
「おじさんたちが愛した昭和野球軍」という文章で、またしても私の心を掴んだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130228/244334/


彼によれば、野球を愛する、要するに「オッサン」たちは
勝利は好きだが実は勝利なぞにではなく、
過酷な状況に苦しみ、痛み、ついには報われない若者たちをみることに
せつなくなり、興奮するのだそうである。


残念ながら、一面では、たぶん、おおいにその通りである。


わたくしどもは、野球を見るときに、
その自己犠牲の姿や、壊れた肩や、
「敗れたがしかし(本質では)敗れていない(と強弁できる)もの」に自分を重ねたがる。
マエケンは大丈夫かと、思いながら一方では、
彼が失われてしまう可能性を鑑み、心の底で、喜んではいなかったか?
いや、これは自虐的かつ露悪的な言い、ではありますが、
その異常な心象の存在は自分で否定できない。


少し話を変えたい。


一見して、大辻の歌集に通底すると理解できる心性に
「東京への憎悪」というものがある。
これは、ネットの普及した現在では、もはやかなりわかりにくいものではあるが、
それでもなお、人々の心に巣食うものである。
というよりは、この『水廊』が出た四半世紀前よりも、
状況が単純に「経済的」なものに還元されてしまうぶんだけ、
地方-東京の対立軸はすでにもはや成立しないレベルに到達しているのだと私は考えていて、
それは、たとえば、原発や、空間放射線量の値にくっきりと示されていると判断しているのだが、
すいません、歌と野球の歌の話でした。


要するに、私は、大辻の野球の歌は、
なにかしらに「防御的」な大辻の「やわらかい内部」の歌であると以前から感じていて、
その印象は、この第一歌集『水廊』を読むことでむしろ強化されたのだ、ということである。


『水廊』には、明確に野球を詠んだ歌が二首ある。

ニシモトの降板までを見し父はああ、と嘆きて眠りけるかも
ライトから見る本塁はかがやいてレギュラーになれなかった夏の日


ニシモトは西本聖のことだろうが、より重要なのは、「父」の歌であることだ。
父の歌は、大辻の歌群のなかで、一般よりも大きな意味があり、その意味は重要だ。
あるいは、ライトのことは、年譜よりどうやら大辻のリアルな話に基づいたものなのであろうとしれるが、
それにしても、無防備で、そして若すぎると思う。


この「無防備さ」が読者に許可されると作者が判断しているのであれば、
それは、小田嶋のいう「昭和的」な背景をもってなされるのであろうし、
岡井隆の影響がありありと見える『水廊』の思想詠・社会詠も、
あるいはおそらくはそののちに続く歌も、
最終的にはこれら野球の歌が指すもの、すなわち自己愛へ行きつくのだろう、と私は考えるものである。


だが、私は、この自己愛のありようをたぶん知っているし、私のものでもあるので、、、
やはり大辻の野球の歌が好きなのである。


個人的な感想をさらに申せば、
この歌集が、311の直前に届いたことは、私にはとても意味のあることであったし、
彼や彼の世代が、311になぜ無力であったか(むろん私も無力であるが)を、
その原点に戻って考えるきっかけとなった。


当たり前の話であるが、
過去の第一歌集は、いまとなっては現在のひとびとに超えられるために存在するべきだし、
再販される意義もそこにこそあるはずだ。
『水廊』はまぎれなく、四半世紀前に屹立するマイルストーンである。
わたくしどもに課せられたハードルは高い。