『いま、社会詠は』その二


いま、社会詠は

いま、社会詠は


その一からかなり経ってしまいましたが、
この論争について思うところを記したいと思います。




冷戦が終了し、55年体制が崩壊し、911を経験した世界では
それまで暗黙の了解として認識されていた思想的な「ストーリー」は
簡単には通じなくなりました。
日本の文脈では、例えば憲法9条にまつわる部分が象徴的かと思われます。
9条改正が現実味のある話題として浮上することなど昔はありえなかったはずですから。
短歌は幸か不幸か時代に遅れがちな表現手段であります。
そのため、世界観としてはやや失効しがちな発想の短歌がかなり長い間、
いやかなりの部分で今も作られ続けていると思います。
しかしながら、新しいタイプの社会詠は否応なく登場してくるものです。
そのとき、軋轢が生じるのは必然です。


私は、小高氏の最初の文章*1をノスタルジーに満ちたものとして読みました。
それは、引用しその素朴さを称揚している歌が、
戦後すぐの最もプリミティブな歌であることからわかります。
率直にいえば、これらの歌は歴史的価値に疑いは無いものの、
現在の読者に届く歌ではないと考えます。
戻るべき地点を近藤芳美にまで戻さざるをえないところにその困難を見ます。
もしこれらの歌が現在も読者を(「読み」の曲折もなく)とらえるのであれば、
おそらくその読者は個人として「世界の変化」を体験していないか
「体験したことを表明する」ことを拒否しているのではないかと思わざるをえません。
私は、小高氏は後者であると判断します。
それは氏の文章が解決不能な困難を強調しながらその解決を志向するという
ドン・キホーテ的心情に満ちているためです。


私はその態度自体は立派であるし、一貫性からみても妥当であるとも思います。
しかしながら、それは教条主義的態度である、というのが私の判断です。
小高氏の論には大きく二点の批判があったと思います。
ひとつは大辻氏がいう「歌にはいい歌とダメな歌しかない」というもの。
もうひとつは吉川氏のいう「小高氏は歌の読みが雑」だというもの。
私はどちらも適切な批判であると思います。
前者については、「教条主義」そのものを無化する考え方でいわば無敵のカードですが、
小高氏の「短歌そのものよりも思想の有無・強弱を評価する」というような態度への
カウンターパンチになっていると思います。
後者については、「若い世代の歌」を

下の世代的の作品をみてみよう。私は、このような作品にかなりの危惧をもつ。一体、社会と自分の関係をどう考えているのだろうか。危機感がゼロのように見えてしまう。(原文ママ)

と評している時点でより深刻といわざるをえません。


NO WARとさけぶ人々過ぎゆけりそれさえアメリカを模倣して(吉川宏志『海雨』)
熱いお茶に淹れかへようか遠国の戦さがどうやら 終りへむかふ(林和清『匿名の森』)
戦争をなくす呪文を口々に唱えて人のつらなりが すすむ(松村正直『やさしい鮫』)


ここに表れているのは、「定型化した危機感」に対する危機です。
あるいは「55年体制的な危機感」に対する危機感です。
「左」や「右」のポジション・トークに疑念を抱いたり、
教条主義的な「危機感」の表明ではあきたらない心情がなければ、
これらの歌は生まれないし、読めません。
「危機感がゼロのように見えてしまう。」という文言からは、
彼らの歌から新しいタイプの「危機感」を読み取る意思を
小高氏から感じることは難しい。
あえて強い言葉を使えば、この態度は怠慢であろうと思います。
小高氏が「現代における社会詠のむずかしさを問題にしている」のであれば、
これらの歌をきちんと読み、
このアポリアに自覚的であることを評価すべきです。
つまり「社会詠のむずかしさ」とはこの場合、
作者の側ではなく読者の側の問題であるということです。


さて、吉川氏たちの歌は、社会詠についての社会詠、
いわば「メタ社会詠」としての機能を強くもっていると考えます。
端的にいえば、従来の社会詠へのアンチテーゼを内包している(せざるを得ない)、ということです。
想像ですが、小高氏が不満に思うのはこの点ではないか、とは思います。
この「アンチテーゼ」を、アイロニーや嘲笑・挑発として受け取った場合、
真面目であるべき社会詠がコケにされた、と感じるのは
自然な成り行きかもしれません。
けれども私は、社会詠に「メタ」性を導入することを、
現時点では積極的に評価すべきだと思います。
なぜならば、いまだシンプルな社会詠が歌壇において強すぎる、と判断するためです。
小説での展開をみるまでもなく、
「メタ」を志向したものは必ず飽きられます。
しかし、短歌におけるその賞味期限がどこまで続くかを
横目に見つつ進むのは案外悪くない道だと思っています。
少なくとも「ノスタルジー」よりは生産的であるはずです。


以上です。