短歌の友人(穂村弘)


短歌の友人

短歌の友人


歌人穂村弘の評論集。
ただし評論といっても短いものがほとんどで、
多くは時評的な文章である。
集中には、キャッチ・フレーズとしてある程度の強度をみせていた
「棒立ちの歌」や「短歌的武装解除」のソースである文章も収録されている。


ここでは二つほど印象に残った事柄があったのでログに残しておきたい。
一つは塚本邦雄に対する言及の多さである。
死去にまつわる話題を超え、
穂村個人の短歌における「出自」としての自覚が前面に出ていることに興味をもった。
「モードの多様化について」というやや例外的に長い文章で、
穂村は「戦後的な感性」の肥大が読みのモードを変容させ、
塚本作品の持っていた「革新的な冒涜性」が現在では自然なものになってしまったと嘆く。
一方別のところでは、若い歌人たちが塚本に関心をもたないことに驚きを示してもいる。
もしかしたら、穂村はフォロワーに対してさえ自分が孤立した存在であることを
仄めかしているのかもしれない。


もう一つは、『短歌における「私」』論から、
なにか極端な印象を受けたことである。
穂村は「〈私〉の革新について」という文章で
短歌における「一生をかけて深めてゆく〈私〉」の背景には
〈私〉の存在についての〈敬虔な判断停止〉があるとする。
そして、それは革新されるべきものだ、という判断がここでおそらくなされている。
考えるに、この評論集で引用され(そして賞賛され)ている歌の多くは
この革新かあるいはその端緒が見えているものなのだろう。
率直に言えば、私からみれば"壊れている/壊している"歌から
本書で穂村は「愛や優しさや思いやりといった人間の想い」を
丁寧すぎるほど読み出そうとしているように見えたのだった。
その丁寧さや偏愛ぶりを見ていると
この努力を支えているロジックが
「詩人とは判断停止からもっとも遠い存在であるべきではないか」と書くような
原理的なものしか実はないのではないか
という疑問が湧いたことをここで告白しておきたい。
科学哲学における"ソーカル事件"ではないが、
それらしい歌がありさえすればそれらしく読まれてしまうのではないか、
と思うほどの。