グラン・トリノ評(転載)


老い方

 月に一度は映画館に映画を観に行くことにしている。先日観たのは『グラン・トリノ』。クリント・イーストウッド監督・主演の作品である。良い映画だった。偏屈な老人ウォルト・コワルスキーを演じるイーストウッドは輝いていた。何の輝きか。スタイルの輝きである。デトロイト近郊で元自動車工としての余生を送っているという設定のウォルトの家には星条旗がはためき、芝は綺麗に刈り取られ、そして黒く輝くビンテージ・カー「グラン・トリノ」がある。そこには一貫した「アメリカ人の男」としてのスタイルがしっかりと根付いているのであった。
 しかし、映画はそのスタイルを貫くことをウォルトにさせまいとする。隣の住居にはアジア系の移民が住みつく。移民の少年はアメリカ的スタイルからは最も遠い弱い存在として登場し、ウォルトは彼を「教育」しようとも試みる。だがしかし、彼ら移民との交流のなかで変わっていくのは「アメリカ人の男」たるウォルトなのであった。「アメリカ人の男」という「虚構」に内心では気付いているウォルト。しかし、最後になって、彼は「アメリカ人の男」のというスタイルを命をかけて守り抜く。それも自分のためでなく他人のために。
 いい映画は必ず心に何かを残す。本作の場合、「老い方」という言葉が私の心の中に残った。何を信じ、どのように日日を過ごすのか。普段は全く考えることのない命題ではあるが、この『グラン・トリノ』はそのような思いを観客に伝えるものであったと思う。クリント・イーストウッドは格好いい。正確に言うのならば、クリント・イーストウッドの老いは人を魅了する。かなうものならば、私にとっては憧れとして彼の老いはあるのである。