「ぬ」考と読者論

2012.3.16に、私は詩客時評に以下のような文章を発表した*1。(以下、尊称略)


問題は吉川宏志の以下の歌の解釈におきた。

天皇原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ / 吉川宏志

私は、詩客の文章で、「恥じぬ」の「ぬ」を完了と解釈し、「恥じた」と歌意をとった。
しかし、この文章をアップロード後、真中朋久より以下の指摘があった*2
該当部分を引用すると、

「ぬ」


は、わたしは打ち消しと読みます。「恥じた」のじゃなくて「恥じないのだ」というような。


それでものごとが解決に向かうなら、ワタクシ個人の主義主張のことはどうでもいい。転向(吉本隆明が出てきたんで「転向」と言ってみたくなる)とか、権威への屈服とか、つまり精神の死を辞さない覚悟だということ。


歌の解釈は割れることがよくある。
そしていずれが妥当かは、多くの要因をもって判断されるけれども、
最適解は、その歌の力を最も引き出す読みである、という立場に私は立つ。
無論、牽強付会な説はすぐさま退けるが。


この場合、文法的に決着をつけることは不可能で、どちらの可能性もありうる(どちらかを否定できない)。
あえて言うなら、「打ち消し」ならば「恥じず」と表現するまぎれない方法を普通取るであろうこと、
また、「思いて」が文語のため、「打ち消し」の「ぬ」はおもに口語であるから不自然であること、
この二点は「ぬ」が「完了」であることを支持するものの、
決定打にはなりえない。


私はむしろ、吉川のこれまでの歌業やこの歌を含む連作から、「文脈」でもってこの「ぬ」を
完了と解釈したのだが、
真中の「打ち消し」の読みは、いわば吉川のこれまでの歌業すべてをニエとして差出し、
それらすべてより巨大な「モンスター」を召還するがごとき解釈であった。
そして、私の信念からいえば、この「真中読み」がより正しく魅力的と言わざるをえなかった。
それは、「読者」として当然の立場なのである。


つまり私は予断をもって、この歌の最も強力で劇的な読みを排除していたのだった。
これは全く、私の非力の故であり、時評では少なくとも二つの読みを提示すべきであった。
自省し、今後の糧にすることを誓うものである。


その後、「死せる作者」御自身のコメントをいただき、
解釈は「完了」で間違いないとのことを伺った。
しかし、これはいわば反則であり、畢竟作者が何を言おうが関係ない話なのである。
もちろん、これでは原理主義にすぎる、と批判されても仕方ない。
また読者論として、この「間隙」は対象になる可能性もある。
ただし、今回の件では、両論併記のうえ、
今後吉川の劇的なターニングポイントになる可能性もある、と
指摘するのが妥当と判断するものであります。


最後に、作者の吉川宏志さま、クリティカルな指摘をしてくださった真中朋久さま、また的確なコメントを寄せてくださった松木秀さまに御礼申し上げます。