『西行論』と『一億人の「切れ」入門』

西行論 (講談社文芸文庫)

西行論 (講談社文芸文庫)

西行論』は評論。
本屋に行ったら小さな吉本隆明コーナーが設けてあり、
覗いているうちに、まあ読んでやるか、と思いました。


吉本の評論集で、西行を論じたもの。
山家集』から西行を再構築しようとしている。
吉本は自称理系なので、理系用語を使ったソーカル的言辞が鼻につく。
そもそも、少しだけ考えればわかるように、歌集一冊から
「個人」を再構築するなど無理なのである。
しかも、吉本は詩人であったかもしれないが歌人ではなかった。
つまり読みを披露することはできても、
詠みを披露することはできない人物であった。


そのように無理に無理を重ねた結果が『西行論』である。
この本は多分、西行研究者からはかなり無視されていると思うが、
歌人の目から見ても、得るところはほぼない。
唯一、宗教(浄土宗)と西行を論じた部分のみ、煌きがあるが、
ふいっと中途でそれはかき消える。
現実問題として、短歌に宗教を「載せる」のは大変である。
吉本のように『山家集』のテキストのみを追っていては、
その部分をきちんと論じることはできない。
研究書としては失格である。
しかも、詠み、つまり、自分で作る能力がないので、
西行の歌を同時代中の「孤峰」といいながらも、
なぜ「孤峰」たりえたかをテキストで追い切れない。


というわけで残念な本でした。
「−といってよい」って昔はやった言い回しなのかな、ぐらい。


一方で、

角川俳句ライブラリー  一億人の「切れ」入門

角川俳句ライブラリー 一億人の「切れ」入門

『一億人の「切れ」入門』は俳句入門書だが名著である。


「切れ」について、あるいは俳句について、ここまで実践的に、
つまり100点ではなく75点を狙いに行った本は、
きっとないだろう。


ロジックは極めて明快で、寸毫も異議の入る余地がない
(ように書ける堂々振りが凄い)。
私はこういう本は大好きである。
大同小異と墨書してあるような本である。


句の最初と最後に既に「切れ」がある、というのも
おそらく長谷川オリジナルであろう。
『震災歌集』で地に落ちた私の長谷川観を復して余りあるものだった。


読み、については、いささか強引ではないか、とか
これは俳人感覚なのであろうな、とか
なんで俳句のバックグラウンドに和歌を持ってこなくちゃならんの、とか
コネタをいっぱい捕まえることができて、
満足である。


死んだ詩人より生ける俳人に唸った啄木百回忌でありました。