『フットボールネーション』と大武ユキ

フットボールネーション 3 (ビッグコミックス)

フットボールネーション 3 (ビッグコミックス)


スポーツを題材としたマンガは数限りなく存在する。
ある分野のスポーツ・マンガが
その分野のカノンとして機能することもある。


サッカーにおいても、
金字塔である『キャプテン翼』以来多数のマンガが
生まれ消えていった。
現在、サッカーマンガの玉座には『ジャイアントキリング』が
座っていると考えるが、
私は、『フットボールネーション』を推そうと思う。


実は、サッカーの「マンガ表現」はいまだ確立していない。
静止画、で表現できる野球に対し、
動画、で対応せざるを得ないサッカーの表現を
マンガでこなしているものはいまだにいない。


端的にいえば、『フットボールネーション』の作家も
画は下手である。
これは、いかんともしがたい。
画の上手い作家はサッカーを画かない。
たぶん、バスケにおける井上雄彦が登場していない以上
この方面での革新はまだ先である。
もちろん、同様の意味で
ジャイアントキリング』の作画も、サッカーを描けてはいない。


フットボールネーション』の本質的な強みは
教養にある。


あらゆる分野がタコつぼ化している現在では
異なるカテゴリの教養を、他者に伝えることは困難かつ簡単、である。
「簡単」なのは、webの発達の結果である。
単なる「情報」「記号」としてなら、
グーグル先生に聞けば、回答を誰でも簡単に得ることができる。


そこで、教養とはいったい何か、という疑問が生まれる。
情報の束が教養であれば、webで代替可能である。
しかし、どうも、あるいはどうやら、そう上手くはいかない。
そこに欠けている要素は、例えば「身体経験」であり、
あるいは「ロジック」や「ストーリー」として紹介される
情報の構造とその構造認知能力なのである。


現代のマンガは、当然その「構造」については
自己言及をする程度には発達している。
しかし、そこには、複雑なものと単純なものがやはりある。
サッカーマンガでいえば、
フットボールネーション』は読者に思考を促すが
ジャイアントキリング』は読者に思考を促すことはない。
それは、読者に提示する情報が、
新しい、とか、本質的である、とかそういうことの差異ではない。
「ストーリー」の構築の仕方そのものが根本的に異なるし、
それは、「現実のサッカー」に対する柔軟性、にも反映されるのである。


これは、
フットボールネーション』は素晴らしい、ということを
無意味に伸ばして書いた文章ではあるのだが、
ここでひとつ、作家の大武ユキが、信頼に値するという私個人のエピソードを述べる。


大武ユキは、10年以上まえに、アフタヌーン誌上で、
『我らの流儀』というサッカーマンガを1-2年連載していた(はずだ)。
そのマンガは、今と同じく画が下手で、どうということもないストーリーだったが
妙に魅力があった。
うまく言い難いのだが、それは「アフタヌーン」臭がするマンガだった。
もちろん、これは最上級の褒め言葉である(当時は)。


私は、毎月楽しみに読んでいたのだが、
ある月に、大武は近況の横の「柱」に
平塚の中田という選手を試合で見て凄かった、ということを書いたのである。


当時は、ネットもなく、サッカージャーナリズムも今以上に未熟で
その眼力は、ほぼ完全に個人に由来していた(と思う)。
プロやコアなサポには、有名だったのかもしれないが、
その時点で、中田英寿は一般的にはまだまだ無名だった。


サッカーを見る能力と、マンガを描く能力を、両方持っていた人間は
当時、もしかしたら現在ですらまだ、大武ユキぐらいしかいなかった。
だから、『フットボールネーション』には、
もしかしたら、
何かかけがえのないものが表現されているのではないか?
と私は思うのである。
それは、信頼、があるからだ。
読者が作者によせる「信頼」とは、
もっとも得難く、それゆえに貴重で、かつ強固である。
現在の世界において、それは、最高の価値を持つ。
もちろん、これは短歌においても同様である。