社会詠ふたたび


私は社会詠に相当の興味がありますので(例えば相聞よりも)、今回の論争は注目していました。
そのなかで表明された<対話可能性>という歌の評価基準(ないしは読解へのアプローチ手法)は、
日本の社会が(もっと細かくいえば短歌を詠み読む「集団」が)思想・価値観における統一性を以前に比べるとはっきり失った現在においては、
最低限確保されるべきものである、と思っております。


以下に引用する発想は、

http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_061211kodaka5.html
しかし、どう考えても、対象や主題に対しての感慨や視線は、外部からのものである。爆撃する、される、その外側に立っている。爆死した子を抱く母には、同盟国の日本にも責任がある。そしてお前にもある。なぜアメリカを止めてくれないのか、と抗議する権利はあるだろう。その視点に対して、どう応えられるだろうか。

例えば同盟国の日本には責任はない、まして私にはない*1と考える人間を最初から切り捨てているものですが、
この「切り捨てる」ことの正当性を何処に求めうるのか、という点がまさに今回批判されているわけです。
批判に対する反論のロジックが"自らの「正当性」の再提示"*2である以上、残念ながらこの論争にもはや実りはないと思います。

*1:かなりキツめのたとえかもしれませんが

*2:しかも、根拠を「自明」とみなしたうえでの