『いま、社会詠は』その一
先ほど家に帰ったら注文していた『いま、社会詠は』の全記録が届いていたので
早速読んでみました。
HP上での「週刊時評」のとある記事から始まったWeb上での論争が
リアルでのシンポジウムにあれよあれよという間に結実したことが冬にあったのですが、
本書はそこでの発言をおこしてログをとったものです。
私は無意味な躊躇をしてしまい(金がないとか)、
その後行かなかったことをたいそう悔やんだシンポだったので、
本書の発行を待ち望んでおりました。
今回通して読んでみて色々と思うことがあったのですが、
以下ひとまず一読した感想のみを箇条書きで書いてみます。
- ちょいと値が張るかも。
- 発端となった小高氏の「かりん」の文章を実は初めて読んだが、そこまで悪くない文章だったことにちょっと驚いた。無防備に「私たち」という言葉を使っていることや(あるいは戦術的なかもしれないが、そうならば一層腹立たしい)、おそらくはある予断に基づいたがゆえの読みの粗さを除けば(もしかしたらそれで全てなのかもしれないが)、ひとつの意見として拝聴してもよいとは思った。
- ともかく、『バグダッド燃ゆ』は読んで感想をブログに上げたい。
- 読みに関するものを除けば、私は小高氏に近い発想だと思うのだが、一方でもっとも益したのは大辻氏の発言の数々だった。
- 大辻氏はかなりプリミティブなところから発言しており、細かい議論になると弱い気もするが、大元での強さがあると感じた。たとえば
人が見ていないところ、俺だけが見ているところを、びしっと発見してそれを歌おうという姿勢でしょう。
など。あるいは、
愚かな者が愚かなまま歌うということが人間の実相じゃないですか。
など。私は南米系の文学が大好きなので、ここには共感しました。進歩する必要なんてないよ。
- 覚悟について。ここはちょっとイヤな気分になった。「責任をとる覚悟をする・している」と公言すること自体が免責を意図しているというか。現実として、知名度の高い歌人の歌はそうでない者に対しては「言ったもの勝ち」なのだから、何をいまさら、と。
- 「叩かれるべき歌」と「いい歌」というのは、両立しない概念ではないと思うのだが。
以上です。
『バグダッド燃ゆ』を読んでからもう一度書いてみます。