うさはらし


ちょっと英語書くのに疲れたので、短歌でうさを晴らしてみます。


『ネット短歌の盛り下がりを喜ぶ 2』
http://sleepingarea.seesaa.net/article/61763677.html
というエントリを興味深く読みました。
ネット短歌について何か言うことは今回避けますが、
ちょっと考えてみたいかなと思ったことがひとつありました。
それは、このブログを書いておられるarukaさんがつまらないと感じている歌に


かえりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき  大松達知


という歌が入っていることでした。
私は、これはなかなかいい歌だと思うのですが、
これをいい歌だとする読みはある種の党派性を帯びてくるのかもしれない、とも思うわけです。


歌会的に評するならば、
まずこの歌はいわゆる「相聞」に属する歌なのだが*1、その平易な表現にかかわらず、
意図するところはかなり捻ってあり、そこがよい、あるいはユニークだ、という路線になるかと思います。
君とおそらくデートしたあとのその帰りに、一人でラーメンを食べることは(悲しみでなく)楽しみである、という感じ方から、
まずは相聞のベタなフォーマットをよく対象化している作者の存在を感じることができます。
そのうえで、本音に対する共感が生まれる、つまり「いや、デートは楽しいけど、相手に合わさなあかんので結構疲れる」
とか「気張ったあとに安いラーメン食うとほっとする」といった読みが広がるわけです。
私としては、「平易な表現」特に「ラーメン」を導いてきたところを評価するものです(個人的に「カロリーの高い」言葉が嫌いなもので)。


ところで、こういった読みをして歌を楽しむには、ある種の「訓練」が必要だと思います。
私は、こういった訓練をすべきであると主張するわけではなく、
そのような「訓練」を一度してしまうとこの歌をつまらないとは言えなくなるのだ、ということを言いたいのです。
個人的な趣味からいえば、やや自己戯画の臭みがあるか、とは思いますが、そこ以下にはならない。
読みにロジックを導入すると、瑞々しいなにかを失ってしまうような気分になりますが、
その「なにか」だけに頼るのはやはり危ないと思うわけです。ベタに例えると、両輪です。
もちろん片輪だけで行く、というのも気概のひとつではあるわけですが。


そこで、しかしながら、そのロジックに恣意性はないだろうか、というのが今回のお題。
こういった議論の辿り方をすると、結論は「短歌観」というところに落ち着かざるをえないわけですが、
こういう疑問が湧いてしまうという不安は告白したいところであります。
また、その「不安」の最も深い源泉は、個人的には歌を一首で読むのかそれとも連作で読むのか、というところにあると自覚しているのですが、
それについては機会があればログに残してみたいです。

*1:短歌で表現される「君」は「私」にとって大切な人物を意味し、かなりの程度で恋人を指す、という経験則に則れば