『風景と実感』(吉川宏志)



待望の第一評論集。
第一章 「実感」とは何か
第二章 短歌の風景論
第三章 風景をめぐる断章
第四章 歌人
からなる。
いずれも重厚かつ自在の文章で、
引用してある歌の守備範囲の広さと的確な読みが際立っている。
論考の中心に位置する第一章をブログで言及するのは
手軽に過ぎるというような気がするので、
ここでは二・三章について記したい。


これらの章で著者は、
「風景」を含んだ膨大な歌を読み込み、
そのどこが読者に生き生きとした味わい(=実感)をもたらすのかを
繰り返し考察していく。
その腑分けの作業はときにテクニカルな実作へのヒントにも届き
著者自身の短歌への理解にもつながっていく。


注目したのは桑子敏雄『感性の哲学』を引用している部分。
著者は桑子の論考を引き、

これまで挙げてきた小池や河野や伊藤の歌は、身の回りの風景を描きつつ、それに一体化している<わたし>を詠んでいることにならないであろうか

と述べる。
<わたし>の範囲をやや拡大して捉えることだけで
歌の読みの視野を一気に広げた感のある一文である。
「風景」が身体性を帯び、その身体性が読者における「実感」を担保する
というみちすじがぱっと眼前に広がった。
確かにはこれは、「<わたし>を回復するために必要な鍵」であろう。
いつのまにか”失われていた<わたし>”について、
歌を読んだときにようやく気付くということもあるのである。