『子規は何を葬ったのか』

『子規は何を葬ったのか』は評論。
「空白の俳句史百年」の副題付き。


江戸期の三大俳人芭蕉・蕪村・一茶は、まあ普通の教養人なら誰でも知っているはずである。
ところが、一茶ののち子規登場まで約百年の期間があるのだが、
名を挙げるべき俳人を誰も知らない、という状況がある、のだそうである。
言われてみると、たしかに聞いたことがない。短歌のほうがまだマシな気がする。
それも、どうも子規が

天保以後の句は概ね卑属陳腐にして見るに堪へず。称して月並調といふ

と『俳諧大要』で述べたかららしい。
あいかわらず子規は困った奴で、斗酒喰らわせて裸に剥いて道に放っておきたいわけだが、
本書は、その「ブラック・ホール」の百年に切り込みますよ、というお話である。


実は、本書には致命的欠陥がある。
このような本の場合、「この俳人は埋もれていたが、実は素晴らしい、蕪村にもひけをとらない!」
などと言えなければ、本質的な価値はあまりないという前提があるからである。
本書は、そのような「新スター俳人」を発掘することかなわず、
結論も、アマチュアの句も捨てたものではない、という
なんだかどうでもいいものになってしまっており、
存在意義に相当乏しいものになってしまっている。
もちろん、子規が蕪村を発見したように、
新発見者には子規クラスの力量が求められる、わけであるから、
いろいろ難しいのは理解できるところではある。


もちろん、その暗黒の百年の俳句を丁寧に発掘していて、それ自体は面白い。
例えば、新撰組副長の土方歳三が土方豊玉として句集を残している、
ことなどはトリビアとして興味深い。


春雨や客を返して客に行く
差し向かふ心は清き水鏡     (豊玉)


まあ、手のうちようがないくらい下手ではあるが
副長が俳句を上手い必要もない、というところでしょうか。


収録句数は多めで、歴史的背景を重視した解釈をおこなっており、
オーソドックスではある*1
とういわけで、コストパフォーマンス的にはお勧め。


子規は何を葬ったのか―空白の俳句史百年 (新潮選書)

子規は何を葬ったのか―空白の俳句史百年 (新潮選書)

*1:俳句こそ、テキスト重視でないと厳しくなるのでは?と思うのだが