カンパリ・ソーダの話

バーで飲んでいたら、隣の客がカンパリソーダを頼んだ。
隣の客は二人連れで会話に夢中になっている様子、
私は本から眼を上げてバーテンダーを注視した。


彼(バーテンダー)は、おそらくは適度な状態のグラスに、
おそらくは適量かつ適切な水由来の氷をいれた。
次に一オンスメジャーカップでぴったり二杯、カンパリを量って入れ、
軽くステアした。
続いて冷蔵庫からソーダ水(当然、おそらくは。銘柄は見えなかった。)を取り出し、
バースプーンに一度当てて
グラスのふちから指2本下まで炭酸水を注いだ。
その後、10秒前後静置し、ふたたびバースプーンを底まで差込み、
氷ごと全てを一度ゆっくり持ち上げ
元に戻した。
そして5秒前後静置し、隣の客へ供した。


隣の客は少なくとも5分後に最初のひとくちめ、をようやくすすった。


さてその後、もちろん私はバーテンダーさんに、炭酸水の処し方その他の理由を聞いた。
すると、すべては炭酸のためである、炭酸水は氷に直当てしてはならないし、
炭酸水を入れたあとのステアは可能な限り省きたい、
なぜなら炭酸は抜けやすいから、
とのことであった。


読者諸賢は適度に教訓を見出していただきたい。
隣の客の属性に、性別民族別年齢別その他、を好きなように代入してほしい。
無論こんな文章を書いている私がクズなことは重々承知である。


ところで、読んでいた本は『イェルサレムアイヒマン』であり、
私の中では、いわゆるカルヴィーノの言う「古典」に入る代物である。
私は震災以来、有難いことに各方面から依頼を受け、
その時点での最高のパフォーマンスをもって短歌を作ってきたし、
今後もそうする予定である。
しかしながら、創作過程では試行錯誤というものも当然存在し、
個人的な野心として、「時代精神」というもの、を
我が内に現出せしめようとしたものの、
極めて良く言えば、それは「半神」的なものに留まってしまった感が強い。


いまさらアーレントを持ち出したのもそれが理由である。
要するに、今回の原発事故は、ナチ*1どもの仕業としか
比較不能なのではないか、
とするなら、私の有限かつ乏しい能力でたどり着けるのはみすず書房の『アイヒマン』がマックスではないか、
そして、村上春樹カタルーニャ賞演説は最高だが、批判されるべき大きな弱点、
すなわち、「効率」こそが悪である、という解釈は、
非日本人には通用するが日本人には通用しないのではないか
という不全感に対する「答えの足がかり」を、求めたのである。


小噺をしよう。
小学校のあるクラスで、AさんはBさんの隣が嫌だと文句をいいました。
教師はクラスのCさんやDさんの話も聞いてAさんの訴えをある程度妥当と認め、
二人の席を離しました。
そのときBさんは欠席しており、後日席替えの経緯を知り、クラス会で説明を求めました。
その結果、教師とAさんから口頭で謝罪を受けました。
以上、めでたし、めでたし。


「悪の陳腐さについての報告」とは、『アイヒマン』の副題である。
20世紀を経るなかで、人類は、民主主義、という包括概念が
おそらくは共通に保持できる概念であるとの理解を持つに至り、
その過程でソ連および共産主義という「悪霊」をおおむね退けたかと思いきや、
ネイションと宗教の妥協点について後退してしまった、
というのが雑駁な私の理解である。
そして『アイヒマン』に詳述されている「悪」は、
前項の小学校のクラスにおいて見出されるちいさな「悪」同様、
ネイションのメンバーに「成り上がった」故に「裸」になってしまった
あらゆる個人(Bさん含む)に平等に見出すことすらできるものである、と考える。
しかし、神の前においてのみ罪悪感を感じたアドルフ・アイヒマンになることすら、
大多数が一神教ではない日本人はおそらくしないだろう。
前世紀において、陳腐、とされた「悪」についてさえ、
決着をつけないだろう。それがわれらの流儀なのである。


さて、壊れた原発は今後も世紀単位で無視できない。
ある程度以上の地震や、台風その他の危険な自然災害がおこるたび、
コンマ・パーミル以下の確率ではあるだろうけれども*2
崩壊熱で煮えたぎっているであろう溶けた炉心、
総量では現状放出された量のおそらく数倍の放射能を持つ地獄のごとき存在が、
外へ出る可能性、を常に考慮しなければならない。
これはつらい。いくら除染しても、ヒトの一生のうちでわずか一回ミスれば、
しかも自分が悪いわけでもないのに全てが無に帰す可能性があるのでは、
正直やってられないだろう。
地震で外に出た分は、まあ、なんとかなりそうだ、後は本体部分だけ、
と、今、皆思いたいし、私も思いたいし、世の中そんな感じだし、、、
というわけにはこれはおそらく参らない。
セシウム137の半減期30年、というのは、少なくとも今の私の想像力では、
対処したうえでいい短歌にはできない。
やっているフリをしているだけである。


というわけで、
そういう環境・時代における「悪の陳腐さ」とは何か、
21世紀的悪とは9.11&イラク戦争、かと思っていたがどうやら違うようだ、とか
いろんなことをいろんなひとが言っているが、どうもこの件に関しては、日本人が一番マシなんじゃね?
その辺含めての円高なんじゃね?とか、
まあ要するに何もわからず、
ただ、前項の「小学校的悪」のありように日々触れて、
特定の宗教に強制的に入信させなかった親を少々憎みつつ*3
デクノボーな短歌を作っている。


以上、
塔も頑張るけれども、他の発表媒体のご紹介がありましたら、何首でも、
一首から百首までOKですので、どうぞご贔屓に、
ということでございます。
並の震災詠は作らない覚悟でございます。


もちろん、カンパリソーダの炭酸は抜けきってしまいました。
私が飲んでいたのもただのカリラでしたけれども。


イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

*1:ナツィでもいいですけど

*2:私はこれでも日本の科学力に絶大な信頼を抱いているのです

*3:人生上で、自ら帰依する宗教を選び取れる人を、尊敬する