週刊俳句時評62に対するコメント

本文章は4/1の19:00頃書いております。
週刊俳句時評にコメントを直接記入したのですが、
よくわからないのですが登録されていなかったため
ここでコメントを書きます。


http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/04/62.html


有馬氏について、松尾氏の解釈は可能であり、同意する。
しかし、以下に述べる二点の疑念があるので、ここに記述します。


1.私(田中)は、有馬氏の震災以後の句を見ると忌まわしい思いがするのだが、それは個人的印象にすぎないか。

松尾氏も指摘しているように、「市民としては」、有馬氏を批判する立ち位置はあるように思う。
私(田中)はいわゆる「原子力ムラ」に対して深い疑念と憎悪をいだいており、
彼らを現行法制上の罪に問えない(だろう)ことに、根深い怒りをもっている。
有馬氏の経歴をみれば、「原子力ムラ」への関与(あるいはそれ以上)を見ることは容易である。


さて、そのような人物が、3.11後に、事故に言及せず自己の経歴を無視したうえで
句を作り総合誌上によい位置を与えられて発表している。
アンフェアだとは思うが個人的な印象を述べると、
元東電社長みたいな人が普通に普通の俳句を作っている、
ように見える。
俳人として論難される筋合いは無い」で本当に俳人はよろしいのであろうか。
私(田中)は「忌まわしい思いがする」と言わざるをえない。
自省、みたいなものを期待する、のは変、なのであろうか。
俳句はそういうものを表現するものではないから、する必要自体がないので、これはただの難癖であり無理解ゆえの疑念である、のであろうか。


2.俳人は季語を尊ぶと聞くが、季語の根底にある「日本の美しい自然」を汚した出来事について、どう折り合いをつけるのか。

季語は俳句の根源(の一つ)であると聞く。
季語は日本の自然や伝統文化を基に歴史を巻き込みながら成立し、
季語は単独で「ひとつの宇宙」を形成する、ものとも聞く。


しかし、季語のよって立つ自然が、広大かつ半永久的に汚されるという出来事がおこった。
俳人は、たとえばこの出来事を、季語が俳句が汚された、とは思わないのであろうか。
季語は季語、自然は自然であり、季語はフィクショナルな記号としての
ありようが実は大きいのであろうか。
そして、この汚染に何等かの責任を推定できる(が問うことは困難な)人物が
季語を使用する、ことに違和感のひとつも感じない、のであろうか。
今後、季語を語るさいに、現状を放置した状態で、いままでのように季語を語ることに
困難を覚える可能性を想定することはないのであろうか。


1について、それは個人的な印象であり、彼が論難される筋合いはない、のなら、それはそれで結構です。


2について、季語と原発事故を結びつけるのは全くの的外れで、議論にもならない、のなら、それはそれで結構です。


このように突き放した書き方をするのは、これはまずは俳人の問題である、
と考えるためです。
なんらかのアクションがおこる、あるいは、おこらない、いずれにしても今後注意して観ることにいたします。
私の現時点でのコメントは以上です。