『現代思想』3月号(2012)
- 作者: 中井久夫,加藤尚武,山形孝夫,森崎和江,山田真,森川すいめい
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2012/02/27
- メディア: ムック
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多くの月刊誌が東日本大震災一周年の特集を組んだ。
見るべきものは見るべきであるが、
私は『現代思想』3月号(2012)を特に推薦する。
率直に言えば、本雑誌の価値観・ベクトルは古い。
今、古いということは致命的である。
端的に言えば、本雑誌は「ブサヨ」の価値観が濃厚すぎる。
今世紀に存続可能とはとても思えない。
しかし、だ、皆さん。「ブサヨ」を駆逐すれば確かにさぞかしスッキリするであろう。
彼らが前世紀の遺物であることは否定しがたい。
では、「ブサヨ」が消滅すれば物事はよい方向に向かうのか?
これは実は難しい問題である。
彼らは、例えば、長年「福祉」に寄生してきた。
では、その寄生体を除去すれば本体は健やかになるのだろうか?
答えは、わからない、である。
または、どちらかといえば、除去するのは「休止」すべきである、という判断になる。
例えば、本雑誌では、貴重なことに、「津波てんでんこ」に対して「批判」がなされている。
そのロジックは、「てんでんこ、に逃げられない障碍者は、座して死すべきなのだろうか?」というものである。
津波のときには他人にかまわず逃げなさい、という教えは、
それが不可能な人間をあらかじめ排除している、というのである。
そして現実に、被災地の多くの障碍者は、
健常者よりも過酷な状況に置かれていた。
クライシスのさなかには、障碍者は、
それこそトリアージに則り、後回しにされてしかるべきなのであろうか?
「ブサヨ」的発想は、こういった問いをいくらかは無効化してきた。
いま、その「ブサヨ」的発想は、存在しない。
では、この鮮烈な問いを、無視してよいのだろうか?
その先には、不毛の大地、
簡潔にいえば「資本」をより多く保持出来た者が優性であるという、
獣同然の地平以外に広がるものはないのではないだろうか?
残念ながら、彼ら障碍者を見殺しにするという選択は、
いかなるクライシス下であろうと私は採れない。
端的には、私=障碍者、である可能性が未来に存在する以上、
いかなる功利主義者といえども、基本的な「資本」を障碍者に分つ、
という選択は避けられない、はずだ。
そして、その分ち、がより厚いほど、
人間的な社会の維持に貢献する可能性が生まれる。
「厚さ」をどの程度にするかは、おそらく、
文明の程度の指標になるだろう。
分つ原資が少なければ、その文明は非情なものになるだろう。
私達は、フクシマ、について今後いかように振舞うべきなのだろうか?
住民を帰還させ、除染の旗のもと、失われたはずの大地を
再び耕せよ産めよ増やせよ、と
号令をかけるべきなのだろうか?
私は拒否する。
例えば、本雑誌に述べられているように、
十年の時を置き、その後除染する、というプランは
より妥当に思える。
そしてより妥当な選択肢が存在する以上、拙速は慎むべきである。
福島の痛みを安易に麻痺させてはならない。
以上のような思考を促す『現代思想』3月号(2012)は
貴重な雑誌である。
特に、社会の「弱い環」である障碍者の文章や、
そういった「環」を見つめざるを得ない精神科医の文章を
掲載していることは讃えるべきである。
踏ん張れ『現代思想』、と考える次第である。