追悼 岡部桂一郎

この記事*1によれば、岡部桂一郎氏が亡くなられたとのことである。
深い哀悼の意を捧げます。


私は岡部桂一郎の歌がとても好きで、ことに『戸塚閑吟集』を愛している。もう表紙がどこかに消えてしまって、地の青い色が裸になっている歌集だが、幾たびもの引っ越しを経ても頑固に生き残り、それどころか私の「短歌特別棚」に並んでいる。何度読んだかわからない。一度お会いできれば、と思っていたのだが、それもかなわぬことになってしまった。


夏至すぎて第十一日目太陽はからすびしゃくの繁る上に来つ / 『戸塚閑吟集


この歌は「知識」「遊び」の歌なのだが、それを超えたところに面白さがあり、また「知識」「遊び」の部分ですこし読みを深めたいと考えるのでここに挙げる。


まず「夏至すぎて第十一日目」というのは、季節のひとつ「半夏生」を指す。詳しい解説はwikipedia*2でも見ていただきたい。ここで肝要なのは、この季節の考え方は農民のもの、あるいは「地のもの」である、ということである。七曜週休二日のサラリーマンとは違う時間のとらえかたがあり、勤め人であった岡部は、内部にいくつかの時間軸を抱えていたのだろう。意識は当然のように天候に、つまりは太陽に向かう。夏至で太陽はつきすぎではないか、という意見はここでは通らない。必然なのである。


次に「からすびしゃく」であるが、まず少し戻って、「半夏生」をもう少し。ハンゲショウという植物がある。これもwikipedia*3をごらんいただければよいが、葉っぱが「緑と白」に分かれていて、よって「半化粧」をあてるとも、「半夏生」の時に花が咲くので、季節から来たのだとも、いやその逆だともいわれている。結構、歌にも詠まれている植物である。


それで、話がややこしくなるのだが、「カラスビシャク」も半夏生と関係がある。まず、カラスビシャクは畑の脇などに生える雑草だが、半夏生のころにもりもり成長する。文字通り繁るわけである。そして、このカラスビシャクの根っこは、漢方薬の原料になり、その掘り出して干した根塊を「半夏」と呼ぶ。うん。ややこしい。


さて、ここまでは、実は従来の読み。半夏生の日に、半夏の上に太陽が来ていた、という歌だが、ほんの少しここから先に進める。それは、岡部が薬剤師である、ということによる。岡部は当然、半夏生と半夏については以上に述べたことをよく知っているわけだが、からすびしゃくは、半夏では「まだない」。つまり、岡部は「繁るからすびしゃく」を詠みながらも、その先の、地下の見えない根っこ=「半夏」を見ていた。「半夏」こそが彼には親しいものだからである。そして、それと南中する太陽を対比させているわけである。つまり、この歌は夏至半夏生という時間の流れと、中天の太陽→地下の根のZ軸、の二本の軸がダイナミックにクロスしているのである。私はこの歌がとても好きである。これまでは「からすびしゃく」=「半夏」で止まっていたが、本当は「からすびしゃくの根っこ(を干したもの)」=「半夏」なのであって、岡部が地下まで見ていた、ということを強調した読みはなかったように思うので、ここで記す次第である。


ちなみにカラスビシャクのこねたを述べると、これはどこにでも生えているただの雑草だが、根っこは薬として売れる、ということで、昔は農家のひとがヒマなときに掘って集めていたらしい。よって別名が「ヘソクリ」と言うそうである。効果は鎮咳・去痰・健胃など。いろんな漢方に入っている。